62歳からの楽しい起業

ロビームにまつわる研究内容や所感を日々記録します。

和光店、秘話

 2004年、社長になってからの初めての大仕事は新規出店でした。同時に橋本にも話がまとまりかけて2店同時に企画をすすめていました。今考えると無謀な計画でした…。
 和光案件は、三菱銀行出身でコンサルをしていた関口さんからです。地主の有山社長は、地元の有力者で造園業を手広く営んでいる方でした。一時、ルネサンスとまとまりかけ、袖にされた経験があり、フィットネスクラブには懐疑的でした。
 当時、和光駅前は各社が狙っていました。誰が見ても圧倒的な立地です。「スポーツプレックス」翠愼氏(セントラルスポーツの元常務)や、「文教センター(アスリエ)」の中村氏(のち社長)がアプローチしていました。名だたる手練れなので、とても勝てるとは思いませんでした。しかし、関口さんの上手な仲介と、明治のブランド力で有山社長と懇意になり土地を貸していただけることになりました。資金の問題があり、複雑なリース案件として東急さんが入る予定でしたが、直前でキャンセルされ、第一リースさんに決まりました。東急はパノムの岡田社長からの紹介でしたが、裏でどのようなことがあったかは、私は、あずかり知りません。
 駐車場が確保できないまま見切り発車で契約が行われました。建築中のある日、有山社長にお願いしました。「隣地の駐車場を貸してほしい、もうお金がないので、自走式の駐車場を建設して貸してほしい」との虫の良いお願いでした。約5千万円の投資です。税理士は反対したそうですが、有山社長は、あっさりと建設、賃貸してくれました。今考えるとありえない話です。「はじめから石原さんに全部貸しておけばよかった」とも言われました。今でも有山社長とはお付き合いしてます。私を信じてくれた恩人です。
 経済的に考えれば、ホテルや飲食ビルにした方が儲かります。見識の高いお金持ちでなければ長期にわたる賃貸借契約は成立しません。人と人の信頼がなければ難しい契約です。
 開発としては、第一勧業銀行から紹介されたパノムの岡田社長に設計をお願いしました。デザインは旧知のダダグラム、岩男社長、コンサルタントはフィットネスマネジメントの中島先生でした。担当者は、パノム平田さん、フィットネスマネジメント小林さん、ダダグラム岩男英樹さんでした。そして、リーダーは明治スポーツプラザの児島あつ子さんでした。大坂デルタ店につながる「チームあつ子」の発足でした。
 私が決めた無理筋(建設期間8ヶ月!)の2004年4月1日、明治製菓の佐藤社長臨席のもと開業セレモニーを行いました。セレモニーは、津島さん(明治製菓出向者)に仕切ってもらいました。案内など、吉澤さん(明治製菓出向者)にも手伝ってもらいました。
https://youtu.be/gMavoD4eSmE
 開業後、しばらくして、亡き両親に見学してもらいました。ダメ息子のせめてもの見栄でした。腰の曲がった母が戸惑いながら施設を歩いていた姿を思い出します。それから半年後、母は、孫の結婚式の前日、突然亡くなりました。

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3Dプリンターでマスク製作

 武漢肺炎の最中、ネットでマスクのstlデータを取得してマスク製作してみました。白で作りたかったのですが、白素材が不適でうまくいかず、やむを得ずオレンジにしました。製作物が薄いのでプレート接着に苦労しました。今回はヘアスプレーで接着を補助しました。また、素材の性能が悪いと(古いなど)うまくいかないことがよくわかりました。製作時間は約5時間でした。印象としては、補強の部材を使いすぎです。備忘します。

 

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・Stlデータを、QIDプリンターのデータに変換しました。(QIDI TECHソフトを起動してmask.stlを読み込む)

・setingは、extrudesr1のみに指定。精度は0.2mm、温度はABS樹脂なので、215℃、プレートは時間を考慮して90℃に設定。他はデフォルト。

・priperボタンをクリック →sliceデータに変換mask.x3g →SDカードにコピー

・初期の接着安定化のために、ヘアスプレーを使用

 

東日本大震災支援活動

 2011年3月のある日。毎日、悲惨な報道を見ていて、大災害だと衝撃を受けていました。会社として被災者の人にお役に立てることはないかと考えはじめていました。思いつきました! その何年か前にインフルエンザ騒動があり、イソジンマスクを大量に購入していたのです、その在庫が山のようにあったのを思い出しました。100万円分のマスクです。インフルエンザは、結局、あっさりと終息したので、在庫になっていました。早速、神奈川県に「マスクを寄付したい」と連絡したところ、「明日中に、横須賀の海上自衛隊の駐屯地まで届けてくれ」とのことでした。ちょうど東北に支援物資を送る自衛艦があるとのことでした。翌日、会社の車(自家用車:プリウス)のトランク、座席の空間に積めるだけ積んで、あいにく社員は、皆さんとても忙しかったので、私一人で横須賀に持っていきました。検問所では、確認もほとんどなく、敷地内を車で誘導され、倉庫に着き、マスクを自衛官と一緒に下ろしました。たまたま、そこに自衛隊の広報の方が居て、「写真とってもよろしいですか?」撮影後、「自衛隊の内部の新聞に掲載しても良いですか?」ということになり、後日、写真と新聞が送られてきました。数少ない社会貢献の経験でした。

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東日本大震災の日

 その日は明治スポーツプラザの月例会議の日でした。午前中の会議が終わり、昼食後、管理職研修が始まりました。管理職にテーマを与え、文書を書かせている最中でした。突然の大地震、普通の揺れではない! 壁際でリクルートビルを眺めている社員に、「ガラスが割れるかも知れない、離れなさい」と注意しました。テレビで確認すると、三陸沖だということでした。このときは大津波には思いもよらずでしたが、管理職たちは直ちに自分の事業所に電話をしはじめました。機転が利く甲本さんや小林誠さんは、ホテルの予約をいち早くしていました。そんな中、アルバイトに来ていた娘に、「家に帰りなさい」と帰宅を促しました。沈む戦艦ヤマトの艦長を経験しました。被害状況の連絡が次々とはいるので、夜中まで会社にいました。

 翌日、ブログに書きました。

昨日、東日本でマグニチュード8.8の巨大地震が発生しました。直後から、妻との連絡が取れず、大変心配しました。普段は家にいる専業主婦ですが、出掛けていて、東京駅付近で帰宅難民になってしまいました。地震から10分後くらいに家に電話をかけたところ、留守電になっていて気づきました。「これは出掛けているな」と判断し、娘に家に帰るように指示、家の電話を繋がるようにしました。4時頃、メールが届きました。「東京駅です、電車が動くのを待つ」。ここで怪我はないことを確認して、少し安心。5時頃、またメール。「動かないので歩いて帰る、只今、おにぎりゲット…」。うーん、20キロ以上あるぞ、大丈夫かなあ、と思いながら、メール、電話をかけ続けますが、その後全く連絡がつきませんでした。11時少し前に、娘から「あと20分くらいで家に帰る」との連絡が公衆電話からあったとのこと、ほっとしました。11時10分頃、家に電話をかけると妻がでました。比較的、元気でした。「東京駅八重洲口の路上で地震にあった」「立っていることもできず、バスの停留所の看板に抱きついた」「周りのビルが揺れて、倒れてくるかと思った」「このまま東京は終わりで、私も死ぬかと思った、もうあなたには会えないと思った」「若い女の子が怖がるので手を握ってあげた」「道を間違えないように気をつけた」「たくさんの人と同じペースで歩いた」「小さな子供にお菓子をあげて、喜ばれた」「自転車は走れないが、バイクはよい、車は全く動かず、役に立たない。バスは動いていたが、乗らなくて良かった、乗っていたら混雑で立ち続けてもっと苦労したと思う」「寒い、手袋を置いてきたのを悔やんだ」「心配してるだろうなあと思った」「おなかがすいたが、家に帰ってから食べようと思って、栄養ドリンクを飲んだ」「トイレに並ぶだけで1時間以上ロスした」「公衆電話は並んでいて使えない」「何だか達成感がある」等々。午前3時まで冒険譚、武勇伝を聞きました。

「大人になったね」「私ももう50歳を超えているんだから…」そのまま深い眠りにつきました。 

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 7月になって、またブログに書いています。

東日本大震災のあと、いろいろ考えました。大津波原発、これまでの生活がいかに幸せだったか痛感しました。仕事にも大きな影響があり、対処に手間取りましたが、ようやく落ち着いてきました。

3月…呆然として、目の前の危機(施設休止など)に対処するのみ
4月…国の対処に振り回される(計画停電など)
5月…被害の把握と今後の影響(防災など)
6月…戦略の変更、仕事の仕組みの変更
7月…明日の仕事にようやくとりかかる

幸にして打撃は軽微、この幸運を生かさなければ…

   その途中の顛末は、明治に提出した詳細な資料を基にして後ほど書き残します。

 

ザバス川崎オープニングセレモニー

1995年6月、ザバス川崎がオープンしました。開業前集客が大成功したものの、高槻、新潟が不振で、外部の方々をお招きする余裕がありませんでした。明治製菓の森下取締役にはおいでいただきましたが、寂しいセレモニーでした。新事業開発部の先輩、石渡社長、私とクラブスタッフだけの寂しいオープニングでした。

近所の女体神社の神主さんにプールを念入りにお祓いしていただきました。出崎さんが司会をしていましたが、「テープカット」というべきところを「パイプカット」と言って爆笑をかっていました。

そして、翌日から怒濤のようなお客様との苦しい運営がはじまりました。特に会員カード作成が間に合わず、会費の収入も、うまくできませんでした。集客は大事だけどそれだけではクラブ経営はできないことを痛感しました。痛恨の思い出です。

 

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ザバス川崎プールのお祓い

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テープカットする私

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お待たせする私

 

和光開業

社長らしい仕事のはじめでした。川崎店開業の後、約10年、石渡社長、八木社長の下、経営、人事を学んでいました。会社の発展、人事の停滞解消、個人的な名誉を目的に、満身の力を込めて開業にこぎ着けました。今思うと気負い過ぎだし、緊張の極みで恥ずかしいのですが、若気の至りと自分を許せるようになりました。「燃えるような思い」過去の私に励まされます。挨拶文を備忘します。

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2004.3.30 社長挨拶

 

 ただいまご紹介にあずかりました株式会社明治スポーツプラザ、代表取締役の石原良太郎と申します。

本日は、皆様ご多忙のところ、ご列席頂きまして誠に有り難うございます。皆様の格別のご厚情ならびにご支援によりまして、本日ここにザバススポーツクラブ和光をお披露目する運びとなりました。有山社長には首都圏でも有数の好立地の和光市駅前をお貸しいただき心より御礼申し上げます。仲介の労を執って下さった関口様ありがとうございました。野木市長様、埼玉県議会議員の神杉様にはお忙しいなかご出席いただき重ねて御礼申し上げます。また東京リース様には新しいファイナンスで資金を提供していただき感謝に堪えません。ゼンケンオールの田中様ありがとうございました。さらに、設計のパノム様、施工の竹中工務店様にはタイトなスケジュールにも関わらず、大いにご尽力頂きました。プランニングのフィットネスマネジメント様、デザインのダダグラム様、他の全ての関係者の皆様、無事にオープンを迎えることが出来ました事を深謝申し上げます。

 弊社は平成2年創立以来、平成3年に大阪の高槻市、平成5年に新潟市、そして平成7年に川崎市へ店舗展開を行って参りました。収支の厳しい時期もありましたが、川崎開業後、順調に業績を伸ばすことができました。

そして今、明治スポーツプラザの歴史の新たな一頁を飾る4号店を親会社・明治製菓の支援の下、ここに立ち上げることが出来ました。

私はこの会社に関わって約10年になりますが、新店舗のオープンが‘会社の’‘従業員の’そして、‘私の’「夢」でした。9年前の川崎店開業の時にすでに次の店を夢見ていました。「夢は実現する」dream comes true。皆様の絶大なるご協力でその「夢」が実現致しました。

ショップでは明治製菓ザバスシリーズやカラダナビ等も販売し、食の面からも健康にアプローチして参ります。お客様の視点で考えたサービスを提供し、地域の皆様の健康と豊かな人生のためかけがえのないコミュニティとなるよう長年に渡って役立ちたいと考えております。

今後は、和光を含めた4店の経験を生かし多店舗展開、チェーン展開という「夢」を実現したいと考えております。スピードとバランス、そしてよいタイミングで積極果敢な業務拡大を図っていく所存でございます。

 ご来賓の皆様方には、倍旧のご支援、ご鞭撻をお願いする次第であります。また、ご来賓の皆様方のなお一層のご活躍、ご発展を心からお祈り申し上げ、簡単ではございますが私からのご挨拶とさせて頂きます。

 本日は誠に有り難うございました。

大潟村あきたこまち生産者協会の涌井社長

 10月8日から10日にかけて秋田に行ってきました。川崎商工会議所、サービス部会主催「農業先進地、秋田から考える日本経済(特別視察会)」に参加しました。初日は、しだれ桜で有名な「角館武家屋敷」を観光。翌日、八郎潟干拓地、大潟村で(株)大潟村あきたこまち生産者協会の見学と涌井社長の講演を聴きました。涌井社長は、謙虚で、論理的で、パワフルで、わかりやすい説明に引き込まれてしまいました。講演の途中で全員が拍手した場面がありました。経営者として身につまされ、期せずして自然に全員で拍手していました。私は感動の余り震えていました! 「年齢のせいにしてはいけない」、「あきらめてはいけない」と大いに勇気づけられました。その夜は、国立秋田病院で働いている兄と会食しました。兄と二人きりでは話すのは、成人してから初めてです。兄はロビームの取締役でもあり、会社の現状について、とても心配していました。「好きなことだけをやるというところまでは理解できるが、成果が示されないと誰も納得しないよ、株主に申し訳ないのではないか」と諭されました。その通りです、反省しました。最終日は一人で男鹿半島をレンタカーで観光しました。五社堂の999段の階段を30分掛けて登りました。誰もいない神社で、大声で感謝を表明しました。

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涌井徹氏講演内容

 日本の農業の現状は、「農業人口が減る」「新規就労者がいない」です。今年から減反政策が廃止になりますが、生産量は増えません。米の消費は減り続けています。50年前、ピーク時1200万トンあった生産が、今は700万トンです。毎年8~10万トン減った勘定です。

 日本では米余りですが、世界で考えると猛烈な人口増で食糧が足りなくなるのは必定です。農地は増えていますが、肉の消費も増えており、飼料も含めて穀物の生産が追いつかないことが予想されています。穀物の主流は小麦ですが、米を小麦代替と考えれば、過剰生産ということはありえません。世界市場での価格も問題ありません。十分闘えます。

 日本の農業は生産集約型のモデルですが、加工や販売(輸出)を含めた6次産業化が解決策のひとつです。特に販売については、輸出により一億人の市場から百億人の市場への転換が必要です。弊社は、東京や福岡にも海外向けの事務所をかまえ、世界中の展示会に出品しています。実際にやってみると、海外で販売するには「認証」「言葉」が大事だということがわかりました。

 当地では八郎潟干拓開始時に減反制度が開始されました。干拓地では米しかできないのに減反を余儀なくされました。生きるために減反制度を無視して生産したところ、「ヤミ米」扱いされるなど辛い時代が続きました。その状況を打開しようと開拓者の何人かで、「(株)大潟村あきたこまち生産者協会」を設立しました。米の販路を確保するためでした。法律の改正で自由流通米が認められ販売ルートとして独り立ちできるようになりました。さらに付加価値を生み出すために、東日本大震災後、「非常食」を開発、販売しています。さらに、米粉を利用して、パン、パスタなど小麦代替の食料品を開発、販売しています。これは、「グルテンフリー」商品で、現在、27品目に拡大しています。直近では甘酒も加工、販売を開始しました。セブンイレブンコストコ、ライフなどの大手でも取り扱っていただけることになりました。

 10年ほど前に、米粉を使ったパスタやマカロニ(グルテンフリーの商品)を開発しましたが思うように売れませんでした。3年前のある日、出張で仙台の居酒屋で食事をしていたとき、隣席で、「ジョコビッチグルテンフリーでも優勝した」との話が聞こえてきました。「これだ!」と瞬時に判断し調べたところ、オバマ大統領のお嬢さんも小麦アレルギーであることがわかりました。(欧米で需要がある!)そののち、まだ一般的でなかった「グルテンフリー」が雑誌でも取り上げられるようになり、各本面で積極的に発信を続けたところ弊社の商品がマスコミに取り上げられるようになりました。その後は大手スーパーにグルテンフリーコーナーが設けられるようになり、順調に売れるようになりました。最近では東京オリンピックに向けて大手ホテルの厨房から注文がくるようにもなりました。最先発で参入したので、今後も後発には負けないと思います。

 

【質問】どうしてうまくいったのか?

【涌井社長】タイミングが良かったからうまくいったのだが、いつも米を販売することを考え続けてるからうまくいったと思う。あきらめないのが良かったと思う(拍手)

 【質問】上場は?

【涌井社長】もう70歳です。面倒なことはやりません。 

【質問】後継者は?

【涌井社長】息子が会社で働いています。芸術家の子息は芸術家になるが、チャレンジャーの子息はチャレンジャーになりません(笑)