62歳からの楽しい起業

ロビームにまつわる研究内容や所感を日々記録します。

東日本大震災の日

 その日は明治スポーツプラザの月例会議の日でした。午前中の会議が終わり、昼食後、管理職研修が始まりました。管理職にテーマを与え、文書を書かせている最中でした。突然の大地震、普通の揺れではない! 壁際でリクルートビルを眺めている社員に、「ガラスが割れるかも知れない、離れなさい」と注意しました。テレビで確認すると、三陸沖だということでした。このときは大津波には思いもよらずでしたが、管理職たちは直ちに自分の事業所に電話をしはじめました。機転が利く甲本さんや小林誠さんは、ホテルの予約をいち早くしていました。そんな中、アルバイトに来ていた娘に、「家に帰りなさい」と帰宅を促しました。沈む戦艦ヤマトの艦長を経験しました。被害状況の連絡が次々とはいるので、夜中まで会社にいました。

 翌日、ブログに書きました。

昨日、東日本でマグニチュード8.8の巨大地震が発生しました。直後から、妻との連絡が取れず、大変心配しました。普段は家にいる専業主婦ですが、出掛けていて、東京駅付近で帰宅難民になってしまいました。地震から10分後くらいに家に電話をかけたところ、留守電になっていて気づきました。「これは出掛けているな」と判断し、娘に家に帰るように指示、家の電話を繋がるようにしました。4時頃、メールが届きました。「東京駅です、電車が動くのを待つ」。ここで怪我はないことを確認して、少し安心。5時頃、またメール。「動かないので歩いて帰る、只今、おにぎりゲット…」。うーん、20キロ以上あるぞ、大丈夫かなあ、と思いながら、メール、電話をかけ続けますが、その後全く連絡がつきませんでした。11時少し前に、娘から「あと20分くらいで家に帰る」との連絡が公衆電話からあったとのこと、ほっとしました。11時10分頃、家に電話をかけると妻がでました。比較的、元気でした。「東京駅八重洲口の路上で地震にあった」「立っていることもできず、バスの停留所の看板に抱きついた」「周りのビルが揺れて、倒れてくるかと思った」「このまま東京は終わりで、私も死ぬかと思った、もうあなたには会えないと思った」「若い女の子が怖がるので手を握ってあげた」「道を間違えないように気をつけた」「たくさんの人と同じペースで歩いた」「小さな子供にお菓子をあげて、喜ばれた」「自転車は走れないが、バイクはよい、車は全く動かず、役に立たない。バスは動いていたが、乗らなくて良かった、乗っていたら混雑で立ち続けてもっと苦労したと思う」「寒い、手袋を置いてきたのを悔やんだ」「心配してるだろうなあと思った」「おなかがすいたが、家に帰ってから食べようと思って、栄養ドリンクを飲んだ」「トイレに並ぶだけで1時間以上ロスした」「公衆電話は並んでいて使えない」「何だか達成感がある」等々。午前3時まで冒険譚、武勇伝を聞きました。

「大人になったね」「私ももう50歳を超えているんだから…」そのまま深い眠りにつきました。 

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 7月になって、またブログに書いています。

東日本大震災のあと、いろいろ考えました。大津波原発、これまでの生活がいかに幸せだったか痛感しました。仕事にも大きな影響があり、対処に手間取りましたが、ようやく落ち着いてきました。

3月…呆然として、目の前の危機(施設休止など)に対処するのみ
4月…国の対処に振り回される(計画停電など)
5月…被害の把握と今後の影響(防災など)
6月…戦略の変更、仕事の仕組みの変更
7月…明日の仕事にようやくとりかかる

幸にして打撃は軽微、この幸運を生かさなければ…

   その途中の顛末は、明治に提出した詳細な資料を基にして後ほど書き残します。