62歳からの楽しい起業

ロビームにまつわる研究内容や所感を日々記録します。

逝くものは斯くの如きか、昼夜を舎かず

 旧い友人が肺がん宣告を受け治療しています。今日は、生死について考えます。先日読んだ「還暦からの底力」(出口治明著)には「死んだら物質に戻り地に帰る。そこに感傷の入り込む余地は全くありません。」と身も蓋もない論でした。そうであっても、せめて心に残る友人、先輩、後輩のレクイエムを残します。生きた証はせめて私が生きている間は有効です。

 47年前に一緒に明治製菓に入社した薬剤師の占部君(享年37歳)。九州男児で男前、「俺、石原みたいに頭良くないけど一緒に頑張ろう」といつも言っていました。2ヶ月、百合ヶ丘の研修所で一緒に暮らしました。短い間に無二の親友となり、お互いの結婚式に出席しました。
 30年前、東京支店に勤務しているとき一枚のファックスが来ました、占部なにがしの死亡通知でした。「父親がなくなったのかな」と思いましたが、よく読んでみると本人の死亡通知でした。衝撃でした。
 葬式には間に合いませんでしたが、九州に飛び、奥様に面談、焼香。壮絶なガン治療の有様と残された一人息子の行く末の不安を聞きました。奥様とは、今も年賀状の交換をしています。「何かあったら何でも相談してください」と毎回書いています。息子さんは京都の大学を出て成人、奥様は今筑波で暮らしているようです。一度も相談はありませんでした。

 明治製菓薬品東京支店、里見さん(享年62歳)。ある日曜日、仕事が間に合わず出勤、里見さんも出勤していました。ゆっくり話したのはその日がはじめてでした。元組合の委員長で人間的にとても練れた方でした。「石原君は、黒白はっきりさせるのが好きなようだが、灰色という選択肢がある。何もしないという選択肢もある」その日は、午後か夜遅くまで、ひっそりとしたオフィスで延々と語り合いました。その日からことある毎に里見さんのところに行って雑談するのが日課になりました。
 定年後、すぐに土地建物取引主任の資格を取得して仕事を始めた矢先、奥様から死亡の連絡がきました。もう27年くらい前のことです。里見さんは桐原さんに次ぐ第二のメンターで今でも私の思考の中心です。 

 明治製菓の後輩の高尾君(享年34歳)。よく飲みにいきました。パソコンソフトの操作法も教えてあげました。高尾君は、はじめ千葉でプロパーをしていましたが、後に本社で制がん剤の開発部署で働いていました。
 30年ほど前、肺がんで死亡しました。ある日、入院している病院にお見舞いに行きました。呼吸が苦しそうで咳こんでいました。「また、銀座のルパンに行こう」と励ましました。別れ際に彼の手を握りました。「私を連れて行かないでね」は余計な想念でした。霊柩車は明治製菓本社を一周しました。そして彼の実家広島での葬式に参列しました。父上から「再婚の確執で仲違いをしていたが入院中に一緒に寝て、氷解したのがせめてもの救いだ」と述べておられました。