62歳からの楽しい起業

ロビームにまつわる研究内容や所感を日々記録します。

売却社内騒動

2012年10月末に当時の玉木常務から通告がありました。会食をしながら、その最中に、あきらめました。直後に児島取締役に顛末を話しました。大きなショックを受けていました。事後、明治の企画部と調整して、明治スポーツプラザ内部では、私と児島さんの二人で内密に事をすすめることにしました。当時の曽我常務にも伝えないことにしました。内部調整やら、M&A仲介会社との面談やら、嫌なことが続きました。結局、売却が決定し、当時の川村社長とも面談しました。淡々と対応しました。

2013年の春、当時の左座常務と、土地建物を所有している東京ガスや、和光の地主、有山さんに事情説明に伺いました。私は、申し訳なくて話す言葉もなく、左座さんがほぼ説明してくれました。敗軍の将、兵を語らずの心境でした。

6月頃、児島さんにはスペイン家族旅行の先で、インターネット通信で経理処理、資料作成をしてもらいました。実に申し訳ないことでした。

2013年7月の最終週に全社員に発表しました。曽我常務、小林部長、甲元部長には申し訳なくも事前の話は全くしていませんでした。業界からも何本か電話がありました。「戦略的な売却ですか?」「とんでもない!私は怒っています」

買収交渉の内容は役員と社員の処遇のみでした。後の処遇だけが心残りでした。結果、児島取締役は明治グループに移籍、綿貫顧問は解任、残りの社員はとどまりました。5人の契約社員を最終日付で正社員にしました。私は退職の意向を固めていましたが、左座さんの心温まる慰留に思いとどまりました。私だけが身分を保証され、グループ企画部に専任部長として配属されました。痛恨の出来事でした。さらに詳しいことは現段階では書けません。

 

東日本大震災

東日本大震災の当日は、所長会議でした。川崎堀川町のソリッドスクエアで会議を行っていました。ひととおり業績報告が終わり、午後から研修がはじまりました。ちょうど所長たちに課題研修の書類を書いてもらっているときに大きな揺れがきました。窓の外では巨大なビルが倒れんばかりに揺れていました。「窓に近づくな!」叫びました。しばらくして会議は中止、それぞれの店舗に戻るように指示しました。アルバイトで勤務していた長女には家に帰るように言いつけました。妻からはショートメッセージで「今、東京駅にいる、無事」と。

写真は翌日のフリーインストラクターのミーティングでの撮影です。このころには未曾有の大被害であることが判明していましたので、沈痛な挨拶をした記憶があります。

3月末に閉店予定のザバス行徳店のプールは底が抜けて、即日に閉店しました。残りの店舗に大被害はありませんでしたが、その後の原発騒ぎ、計画停電など風評被害にも悩まされ数ヶ月は実に大変な日々でした。その記録は全て文書にして残してあります。追い打ちのような気分になりましたが、損害の少なさに幸運も感じました。

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鶴見店

写真は鶴見店巡視の写真です。毎月、保険医、早坂先生と一緒に保健指導に回っていました。

2013年の夏、当時の玉木常務と経営企画部の部員3名とで鶴見店に来訪がありました。そのときの訪問意図は明治スポーツプラザの売却調査でした。そのときには知るよしもないことでした。楽しく会食を済ませました。

その後、玉木常務からサシで話したいとの通告があり、衝撃の事実を聞きました! 確か10月の終わりだったと記憶しています。話の内容から、「変更不能」を悟りました。思い出したくもない事実です。

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指定管理開始

2006年4月、明治スポーツプラザは指定管理事業を開始しました。M&Aした旧東京ガススポーツが横須賀の「すこやかん」を運営していたこともあり、公共ビジネスのノウハウが明治スポーツプラザに移転したことが大きなきっかけです。ついでに川崎市「幸スポーツセンター」「石川記念体育館」高槻市高槻市民プール」横浜市「ふれーゆ」の提案型入札に勝利しました。「すこやかん」は既存運営先で問題はありませんでした。大問題は「高槻市民プール」でした。自主事業の利益を当てにした受託見積もりでした。高槻市は、あくまでも都度料金のみで自主事業を認めない方針でした。既存の受託料金より1億円以上のダンピングしましたので勝つには勝ちましたが利益の目処がたたないのです。高槻市は決定直前に「本当に大丈夫か?その価格でやれるのか?辞退するなら了解する」旨の連絡が甲元さんにあったそうです。既存業者にそのままやらせたい事情が見え隠れしていました。直接的には当時の寺田さんが市の状況をミスリードした結果です。山﨑氏も若干関与していたように記憶しています。もちろん全ての責任は私にありますが。交渉決裂で途方に暮れました。年間5千万円の赤字になることは必定でした。そこで当時の明治製菓の工場長にお願いして副市長に面談を求め、自主事業の許可をお願いしました。うまくいきませんでした。その結果、初年度は経費を削りに削った運営で市民からも悪評をいただきました。しかし全体でみると他の四施設が赤字を補填することになりましたので指定管理運営自体は失敗ではありませんでした。幸スポーツセンターは神奈川大学の大竹教授に提案書を書いてもらいました。これも当初の売上歩率の契約を破棄していただき一時払いにしていただきました。儲かるのがわかってからの苦肉の策でした。それも高槻の失敗の影響です。苦難の道がはじまりました。

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千葉2店閉店

2010年のある日のことだと記憶しています。当時の経営企画部戸谷課長が午前中会議で川崎のオフィスを訪れました。「今日はゆっくりお話する時間が欲しい」と真剣な雰囲気でした。午後からの二人きりの面談で、「千葉の儲からない店を閉店するべきだ、損切りをするべきだ」という説得に来たのでした。川島部長の指示で。回復の可能性を私がひとくさり話した後、彼は言いました。「千葉の行徳店、本八幡店は難しいと思う、ここは閉店して出直すのが明治スポーツプラザに未来のために最適な方法です」と。追い打ちをかけるように「この2店を除けば業績は安定している、この2店の赤字で、ほかの店の黒字が消えてしまっている。従業員の賞与や昇給が十分でないのはこの2店があるからではないですか?」しばらく沈黙しました。全従業員の困窮は私のM&A失敗のせいであること、みっともなさは受けなければいけない、大変だが立て直しは私の仕事だ、逃げ出したい、いろいろな思いが錯綜する沈黙でした。「わかった、そうします」

戸谷課長が川島部長に報告した際、「え!そんなにあっさり同意したの」と驚いたそうです。孫正義氏がツイッターで「損切りができない経営者はケチだ」と書いていました。その通りだと思います。苦渋の決断でしたが、受け入れるしか再生の道はないと覚悟しました。会社もやめるつもりでした。結局、優しい明治製菓は私を残しました。そして再生のための苦難の道、指定管理や介護予防に活路を見いだすしかありませんでした。私の誤った判断の顛末です。川島部長と児島取締役はM&Aの決断のときに、止めた方がよいと何度も忠告してくれました。聞こえなかった私の不明です。痛恨のミスでした。

言い訳を残しておきます。ずっと以前に中島先生(元フォレスタクリエーション専務で明治スポーツプラザの経営コンサルタント)にフォレスタの買収の話を打診していました。「できたらいいね」との回答でした。心の中に可能性がモヤモヤしていました。数年後。売却の話が新生銀行からきました。中島先生に買収の調査、判断をおねがいしたところゴーサインがでました。失敗が明らかになった頃、中島先生、山下さんを呼びました。私は淡々と失敗の弁を述べました。山下さんは「今日は、お怒りの言葉があるだろうと思っていたのに、恐縮です」との話がありました。決断したのは私です。約10億円の損害を被りました。買収金額が高かったのは買収競合のオアシスがあったからです。はじめは収支の合う金額を意識していましたが、後半は買収が目的になってしまいました。当時の古田部長への見栄もあったかもしれません。経営者として未熟であったことを認めます。これが、のちの明治スポーツプラザ売却の重大な伏線になりました。

20周年記念パーティ

 2010年4月15日、明治スポーツプラザ20周年記念の式典を銀座のホテル西洋で行いました。午後から明治本社地下講堂で会議を行った後に場所を移して式典を行いました。主賓は明治製菓の河野常務でした。他に川島部長、渡部部長も出席してくれました。すでに千葉3店舗のM&Aで会社の業績は急速に傾いている状態でしたので、川島部長に居酒屋あたりで質素にやりたいと言ったところ、当時の塚西専務から「費用も出してあげるから立派な場所でやるように」との助言がありました。嬉しいことでした。旧東京ガスの社員も含め大いに盛り上がりました。最後に明治製菓の人もまじえて肩を組んで合唱しました。明治統合前の一体感のあるパーティでした。

 

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桐原氏の教え

人は一人前になる前に長いトンネルを通過する。真っ暗でどこにいるかもわからない。でも歩き続けなければトンネルをでることはできない。

遅刻する相手に対しては遅刻してはならない。遅刻する人間は遅刻する人を許さない。

点から線へ、線から面へ、これが営業の神髄である。典型作りとその一般化である。小さな成功を典型にして拡大するしかない。それが弱者が強者に勝つ唯一の方法である。

人を追い詰めてはいけない。必ず逃げ道を用意しなさい。

桐原氏は当時40歳そこそこ、私はすでに60歳を超えている。未だに至らず、反省しきりである。