62歳からの楽しい起業

ロビームにまつわる研究内容や所感を日々記録します。

石原武龍

 いとこの石原純一が亡くなりました。故石原純一は「石原武龍」の名で脚本を書いていました。「温泉へ行こう」「やんちゃくれ」など、ウィキペディアに詳細な作品が載っています。彼の生きた証です。彼は8月24日の朝、あっさりと逝きました。

 私より1歳年長です。子供の頃、畑の中の一軒家、彼の家でよく遊びました。スポーツマンで健康そのものでした。陸上競技、野球、サッカー、ゴルフなんでも来いの運動家でした。その彼が人生初の入院を経験して、一ヶ月後に亡くなりました。

 大人になってから叔父叔母の葬式で会う以外はほとんど接触がありませんでした。40年前、武子叔母が亡くなったときに、財産分与やお墓のことで文句を言ったおぼえがあります。10年程前、川崎でお酒を飲んだときに、私が泥酔して、絡んだことをおぼえています。内容はおぼえていません。謝っていません、申し訳ないことをしました。

 東日本大震災の数ヶ月後に、彼がいとこ会を企画してくれました。私は直前に出席できないことを伝えました。震災の始末でそれどころではありませんでした。行くべきでした。私の父母の葬儀や彼の姉の葬儀で一言、二言言葉を交わしてはいましたが……

 3年ほど前、私が函館勤務の頃、突然、電話がありました。「友人達とゴルフ旅行で函館に居る、飲もうか」と。市内の居酒屋で待機していました。「あしたゴルフなので、今日は無理だ」と連絡がありました。ゴルフ場は「函館カントリー」、私も同じ場所でゴルフの予定でしたので、「明日、会えるかも」と電話を切りました。会えませんでした。微妙にプレイ時間がずれていました。フロントに手紙をあずけてくれていました。「またの機会に」と。実に残念でした。

 8月20日、医師の兄から「重篤」の知らせ。24日、いわきに向かう列車の中で「逝去」の知らせ。あっけない最後でした。悲しみは日々をおって募っています。「まだ早い!」「語り足りていない!」反省と喪失感が溢れてきます。

 昨日、姉の良子さんと電話で話しました。最後の様子を聴きました。看護師さんから「譫妄」の状態だと聞かされていたが、最後まで意識があり、目で「後はよろしく」と訴えていたそうです。彼女と息子を凝視して亡くなったそうです。

  ここに、作品群と死の直前のブログを明示し、故人の業績をたたえ、冥福を祈ります。

 

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 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E6%AD%A6%E9%BE%8D

 

石原 武龍(いしはら ぶりゅう、1952年7月15日[1] - )は、日本の脚本家。静岡県生まれ[2]。武蔵工業大学出身[1]。 かつては、石原純一、石原武竜の名でも執筆していた。

 公式サイトによると、デビュー作は七人の刑事「俺たちの甲子園」(1979年8月10日、TBS、共同脚本)、実質的なデビュー作は火曜サスペンス劇場「特別病棟の女」(1982年9月14日、日本テレビ)[3]。

 テレビドラマ(連続)[編集]

1983 「事件記者チャボ!」 (日本テレビ) ※石原純一名義

1985 「気分は名探偵」 (日本テレビ - 土曜グランド劇場)

1987 「敵同志好き同志」 (日本テレビ - 水曜ドラマ)

1988- 「さすらい刑事旅情編」シリーズ (テレビ朝日

1988- 「はぐれ刑事純情派」シリーズ (テレビ朝日

1991 「デパート!夏物語」 (TBS)

1992 「デパート!秋物語」 (TBS)

1993 「ツインズ教師」 (テレビ朝日 - 月曜ドラマ・イン)

1993 「いつか好きだと言って」 (TBS)

1994 「スチュワーデスの恋人」 (TBS)

1995 「夏!デパート物語」 (TBS)

1995 「おかみ三代女の戦い」 (TBS)

1996 「ふたりのシーソーゲーム」 (TBS - 東芝日曜劇場

1997 「ストーカー・誘う女」 (TBS)

1998 「略奪愛・アブない女」 (TBS)

1998 「やんちゃくれ」 (NHK - 連続テレビ小説

2000 「伝説の教師」 (日本テレビ

2001 「愛は正義」 第2話のみ (1月19日、テレビ朝日

2002 「探偵家族」 (日本テレビ - Surprise Saturday)

2002- 「おみやさん」シリーズ (テレビ朝日

2008 「京都へおこしやす!」 (TBS - ドラマ30

2009- 「ハンチョウ〜神南署安積班〜」シリーズ3まで (TBS - パナソニック ドラマシアター

TBS 愛の劇場1999- 「温泉へ行こう」シリーズ (第4・5シリーズは脚本監修兼任)

2006 「病院へ行こう!」

2007 「結婚式へ行こう!」(脚本監修兼任)

2008 「温泉へGo!」

時代劇1994 「大江戸風雲伝」 (NHK - 金曜時代劇)

2007 「刺客請負人」 (テレビ東京 - 金曜時代劇)

 テレビドラマ(単発)

この他にも、2時間ドラマが多数ある。

年末時代劇スペシャル *3作品とも、杉山義法の脚本協力 白虎隊 (1986年12月30日・31日、日本テレビ

田原坂 (1987年12月30日・31日、日本テレビ

五稜郭 (1988年12月30日・31日、日本テレビ

 世にも奇妙な物語 「ともだち」 (1991年6月3日、フジテレビ)

「水を飲む男」 (1992年7月2日、フジテレビ)

 東芝日曜劇場潮騒が聞こえない」 (1992年11月1日、TBS)

DRAMA COMPLEX戦国自衛隊関ヶ原の戦い」 (2006年1月31日・2月7日、日本テレビ

土曜ワイド劇場「警視庁捜査一課長〜ヒラから成り上がった最強の刑事!」 (2012年7月14日 - 、テレビ朝日

フジテレビ2時間ドラマ枠[4]「赤い霊柩車シリーズ」 (第18作 - 第28作、第30作、第32作 - 第34作 - フジテレビ)

水曜ミステリー9「ドクターハート 薮田公介の事件カルテ」 (2014年11月19日 - 、テレビ東京

 映画(実写)

シブがき隊 ボーイズ & ガールズ (1982年、東映森田芳光監督) *原案

はぐれ刑事純情派 (1989年、東映

 映画(アニメ)

プロ野球を10倍楽しく見る方法」 (1983年、東宝東和) *脚色

プロ野球を10倍楽しく見る方法2」 (1984年、東宝東和) *共同脚本

「RUNNING BOY スター・ソルジャーの秘密」 (1986年、東宝) *共同脚本

宇宙戦艦ヤマト 復活篇」 (2009年、東宝) *共同脚本

宇宙戦艦ヤマト 復活篇 ディレクターズカット」 (2011年、東宝) *共同脚本

 漫画原作

週刊漫画アクションパウロへの手紙」連載4話 (1985年) *モーニングセット名義

コミックハイ (1990年) 「すずらんなんかぶっ飛ばせ」

「接吻」

「おどきあそばせ!」

 舞台

「カジノの夜」 *演出

「プリズン※ガールズ」 (2011年、新宿スペース107) *共同脚本・単独演出

「パプリカな夜に~逃亡者の館~」(2014年 六行会ホール)*共同脚本・単独演出

 

 「d’s daiary」日々敵前逃亡……淫らな煩悩をこよなく愛する人々のために より

http://ibull.jugem.jp/?

 

2018.06.26 Tuesday

全然関係ないんですけど、今月で、がん保険が切れるっていうのに、昨日から、猛烈な胃痛。明日か明後日、病院に行って調べてもらっても、検査結果が判るのは、きっと七月に入っちゃいますよね。だとすると、もう、ガン保険の期限が切れてる。困った。どうしよう。お医者さんに事情を話したら、すぐ結果を教えてくれるのかな、2,3日じゃ無理だよな

 

2018.07.06 Friday

現在、人生初の入院中! 今日で十日目! 間もなく退院! …予定。

絶食七日間で、昨日ようやく重湯、そのあと五分粥で、先程、ようやく普通のお粥。

食事もさることながら、治療ももちろん、娑婆の予定キャンセルなど、入院てのはいろいろで、一言では言えませんね。でも、あまり病気もしなかった私が、いきなり「今から入院できますね」なんて言われて、生まれて初めての入院なんて、何かしらの人生のタイミングなのかもしれないと思うわけです。あと3日、4日、退院まで我慢我慢!

 

2018.07.10 Tuesday

一部の皆様、お騒がせしましたが、本日、無事退院。元気です。仕事場に戻ってすぐ、洗濯したり、布団干したり、このくそ暑い中、郵便局まで税金を払いに行ったり、保険会社に「入院したぞ」と連絡したり、結構忙しかった。でも元気です。揚げ物と天ぷらは一カ月禁止だそうですが、あとは暴飲暴食しなければ大丈夫なようです。と言っても、油断大敵ではありますので、注意。入院中に溜まったもろもろの原稿をこれから頑張りますです。

 

2018.07.14 Saturday

入院はイヤですね、痛感しました。痛みと戦ってる人には申し訳ないですが、私は暇との戦いでした。そんなとき、癒やしてくれたのが… 私の場合、絶食が治療だったこともあり、一番の楽しみはスマホアプリの「DELISH KITCHEN」を見ることでした。簡単料理紹介でおいしそう。退院したら、あれ作ろう。これ作ろうとそればっかり考えてました。DELISH KITCHENには感謝です。

それにしても、暑い体力回復のために毎日散歩してるんですが、リハビリどころじゃなくて熱中症で倒れるわ。それでも私は散歩に行く。来月のゴルフのためにも。

 

2018.07.16 Monday

身体がだるくて、何もやる気にならないのは暑さのせいなのか、病み上がりのせいなのかと考えてるうちに一日が終わる。これでいいんだろうか。

それにしても食事制限がかかっているので、3食のメニューを考えるのが結構しんどい。

 

2018.07.18 Wednesday

 私、猛暑の中でもリハビリ散歩を続けてるわけですが、今日はやばかった。ジョギングしてるおばあちゃんがいたりするのに、私、歩いてるだけで、突然ふらっとしてしまいまして暫し木陰で休憩、

熱中症もどきですかね。調子に乗ってはいけません。二週間のベッド生活は結構ダメージ大きいのかも。ゆっくり元に戻します

 

2018.07.29 Sunday

病み上がりだからなのか、猛暑だからなのか、何もやる気が出ない。ヤバイなあ。

さてそして、相変わらず暇なんで、今度は手塚治虫先生の「ブッダ」を全巻拝読。まあ、殆どオリジナルで描いてらして、お見事というしかないですね。ブッダの人生を知って、そこからあれだけのオリジナルの登場人物とお話を作るって、もう、かないません。当たり前か……。「火の鳥」を読んだときも、日本の神話の古事記を勉強してから読むとその凄さが判ります。素となってる「日本書紀」と「古事記」をあそこまで広げて描くって、頭の中、一体どうなってるんだろうかと思いますね。やっぱり天才はすごい。

 

2018.08.02 Thursday

病院で、睡眠導入剤をもらったので、毎日、すぐ寝ることが出来たんですが、今日、ちょっと止めてみようかと思って導入剤を飲まなかったら、寝られずに四時半になってしまった……歳は取りたくないね。

 

2018.08.03 Friday

今日は、師匠の杉山義法さんの命日なので、お墓参りに言って来ました。暑かった……熱暑でした。帽子とサングラスのままでお墓参りしてしまいました。すいません、先生。

今日も、いろいろ話しかけたんですが、何のリアクションも感じませんでした。いつもは何かしらビビッと来るものがあったりするんですが、今日は皆無。全く無反応。早くこっちへ来い、そしたらゆっくり話せるぞ、ということなんでしょうか。もう間もなくだと思いますので、暫しお待ちください。

杉山先生は新潟出身なんですが、古くからの親友が新潟の地元で急逝したとき、「あいつの葬式なら、俺が葬儀委員長をやる!」と言って新潟へ行き、葬儀を終えて東京へ帰ってらしたその夜に、なんたることか、杉山先生も仕事部屋で急逝してしまったのです。親友に呼ばれたのかとそのときは思いましたが、8月3日ですから、きっと猛暑にやられちゃったんですね。親友なので、一生懸命葬儀進行をやられたんでしょうね。心労と過労の結果だったのでしょうか。

今、NHKの大河が「西郷どん」なので、その字を目にする度に杉山先生を思い出します。

杉山先生も日本テレビの年末時代劇「田原坂」という作品で、西郷隆盛を主役にして書いてまして、本名時代の若き私も、お手伝いをさせていただいた作品です。更に言いますとその前年の「白虎隊」では、杉山先生が俳優として西郷隆盛を演じて出演しましたので、

西郷と杉山というつながりの印象が強いのです。その撮影日は、私も京都のスタジオに入って、杉山先生の不器用な演技をドキドキしながら間近で見ていたもんで……。

とまあ、そういう一日で、この猛暑はいつまで続くのか、散歩に出るのも恐ろしい。今日は夜遅くスーパーへ買い物に出ます。夜遅いと割引がいっぱいあって楽しいです。

 

2018.08.09 Thursday

やっぱり人間、一度病気をすると、あちこち出てきちゃうんですかね。先週から腰痛、背中も痛いので内臓悪いのかな。ガンかなとか、いろいろ思ったんですが、どうもただの筋肉痛なんですよね。リハビリ頑張りすぎたみたい。まあ、じっくり治しましょう。

 

2018.08.11 Saturday

8月10日……もう一時間過ぎてしまいましたが、39年前に、私の本名が初めてテレビに出た日です。脚本家デビューの日でした。

TBSの「新・七人の刑事」という番組。大学出て、どこも就職しないで脚本の勉強してて……今になって思うと、親は相当心配してたでしょうね。脚本家目指してたって、なれる確率低いし、しかも機械工学科を出て、何が脚本家だって……なので、初めて名前がテレビに出たときは両親は喜んだでしょうね。もっとも、脚本家で生活出来るようになったのは、それから三年後でしたが……

たくさんオンエアするようになると、母親がオンエア直後に「次はいつ?」と簡単に聞いて来るのが参った。みんな、そんなにたくさんやってないんだよ? 年に数本の脚本家だっているんだよ「次はいつ?」というのは、プレッシャーにはならなかったが、とにかく苦笑でした。ホント、無邪気な母親でした。

デビューの年は1979年ですから、長いわ……でもやっぱり最初は刑事モノだったんですね

多分、次が火曜サスペンスだったりしたので、そういう運命なんですかね。そのあと、いろいろ他のジャンルをやっても、やっぱり刑事モノとかサスペンスものの脚本家と思われる、基本はそれで生きて来たので、仕方ないか。ありがたく、そっちの脚本家だと拝命しましょう。

さてもう40年目に入ったんですが、次があるのかないのか。テレビ業界、すっかり変わってしまったので、我が道をいくことにしますか。

 

2018.08.12 Sunday

昨日は、腰から背中から首まで痛かったので、ご近所のマッサージ行ってみました。結構ハードなマッサージで痛いくらいだったんですが我慢してみました。

終わってすぐは、あまり効果がなくて、まだ背中も腰も痛かったので、ああ、これは筋肉じゃなくて内臓なのかなと思ったわけです。そして夜になって頭も痛くなったので、バファリンを飲んでみました。すると、なんと頭も首も背中も腰も全部の痛みが取れてしまったのです! 一体、何が起きたのでしょうか、マッサージが今になって効いたのか、バファリンて頭とか歯痛とかだけじゃなくて腰痛まで治してしまうのか、だとしたら、すごい発見だ。でもまだよく判らないので、今度またあちこち痛くなったらバファリンを試してみたいと思います。これでまた治ったら劇的な発見です。ちなみに私のゴルフ仲間のK君も同じように腰痛と背中のバリバリ痛で治療中とのこと。筋・筋膜痛症候群…… ですって彼は、電気治療、針、マッサージ、全部やってるらしいそうすると、少しいいらしい。なので私も病院行ってみようかと思うわけです。

 

 

 

 

中島先生

1994年の夏、フィットネスマネジメントの中島先生を訪問しました。表参道にほど近い青山アパートにオフィスがありました。山下さん(現ヒカリの常務)がお茶を出してくれました。それまで幾人かのコンサルタントにお目にかかりましたが、「それでいいのではないか」「ご立派」とか、歯の浮くような言説の人ばかりで、業界のコンサルの能力に疑問を抱いていました。大阪の甲元さんから変わったコンサルがいるので「会ってみたら」とのアドバイスがあり早速訪問しました。先生がフォレスタクリエーションの専務をやめ独立したばかりの頃です。私の考えを散々こき下ろされました。「小学生の意見だね、実際は大人の経営でなければ、運営できない」「一番あぶないのは、生半可な経験と知識で運営することだ」などなどボロカスでした。当時の石渡社長に、「中島先生にコンサルをお願いしたい」と進言しました。月10万円のフィーでした。広告の内容、プロモーションに原則、プログラム内容まで全て教わりました。なかでも一番重要なことは価格設定でした。小さな紙に「入会金3万円、月会費1万円で成功する。入会金2万円、月会費9千円で大成功する。」と書いてありました。直ちに、書類にして、明治製菓の新事業開発部長に提案しました。部下の木内君に伝言で「あれだけの投資をして、その価格では元が取れない、石原は何を考えているのか、まかりならない、本人に伝えておけ」とのことでした。無視していたところ、専務臨席の会議で、2万円、9千円を主張しました。結果、専務からのお許しが出て低価格路線が決定しました。「飴チョコで成立している会社が安い価格で売って何が悪い!」との主張を笑って認めてくれた専務には今も感謝しています。

後に、明治製菓の一階の喫茶店で、中島先生と専務、私で話をしました。専務が言いました。「石原は、熱意と志はあるがソロバンが足りない、中島先生、石原の足りないところを補ってほしい」とお願いしてくれました。結果3日2700名の当時の集客日本新記録を打ち立てることができました。

一年の契約でしたが、その後はあまり相談もしませんでしたが、毎月10万円、10年間払いました。ある日、中島先生から「心苦しいので契約をやめましょう」といわれ、コンサルフィーの支払いは停止しました。しかし、その後も単発の調査をたくさんお願いしました。和光店や高槻デルタ、成立しなかったたくさんの案件のマーケット調査はすべて中島先生にお願いしました。

その後、中島先生はコンサル開始の時からの夢であったクラブ運営に進出され、千葉や九州、四国に店舗展開されました。軌道に乗り始めた頃、先生は病魔に冒され第一線をひくことになりました。実に残念なことでした。のちに明スポがフォレスタを買収したことの遠因でもありますが、その話は別の機会で…

本社川崎移転

1996年10月に本社を高槻から川崎に移転しました。本社移転は非常に大変なことだと思いますが、当時は勢いでやりました。3店舗という少ない店舗なので、比較的業務は簡単ではあるものの、経理社会保険、税務など順を追って移転しました。実務はそれなりに大変だったと思います。当時の経理担当、高槻の前川さん、新潟の石山さん、川崎の高橋さん、児島さんで経理中心の移転会議を何度も行いました。

その後、ソリッドスクエア一階の非常に狭い場所を本社として、石渡社長、高橋さんが常駐しました。しかし環境が悪く、しばらくして明治製菓のフロアの一画をお借りして本社としました。私は川崎店ゼネラルマネージャー(店長)として地下の席に居ました。

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社員研修(1)

 明治スポーツプラザの社長になって痛感したのは、社員の知識不足やリベラルアーツの低さでした。定期的な研修を実施しなければ自分の指令は理解されません。やむにやまれず継続的な教育を施すことにしました。まずは、新入社員教育、そして幹部社員の教育でした。社員のレベルアップは教育よりも採用であることが明らかでしたので、面接の時に、見所のある人材を採用しなければなりません。就任当時は人余りでもあり、採用に対して30倍程度の履歴書を集めました。また、履歴書と人物の相関関係がどうなっているか、一度だけ、すべての受験者を面接しました。結論は、履歴書と本人には強い相関があることがわかりました。すなわち、履歴書がいい加減な人は、いい加減であるということです。それからは自信をもって履歴書で落としました。

 入社直後の教育は3日ほど外部に委託しましたが、その後、社内で数週間の集合研修をしました。会社の歴史やフィットネス業界、さらに運動理論や心理学まで学ばせました。現場配属後は2ヶ月程度、指導員(若手社員)を付けて、毎日、業務日誌でやりとりさせました。勿論、事後、管理者がその日誌をチェックすることにしました。約1年後に、契約社員も含めて、百合ヶ丘の研修所などで泊まり込み研修を行う仕組みにしました。写真は最後の「しらくの湯」での集合写真と社長なりたての講話時の写真です。

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卓上 USB 冷風機

あまりにも暑いのでUSBタイプの冷風機を買いました。事務所の空調が十分ではない、扇風機は熱風がでるだけなので、購入してみました。水を500CCくらい入れて、パソコンのUSBに繋ぐと、あらー!快適な冷風が… 値段3000円なので期待していませんでしたが、満足の買い物でした。

扇風機 卓上 USB 冷風機 冷風扇 ポータブルエアコン ミニエアコンファン ミニポータブルエアコン 冷却・加湿・空気清浄機 7色LED搭載 夜間ライト 風量3段階切り替え 小型 省エネ 静音作業 軽量 携帯性 USB充電式 5V/1.5A-2A 長時間連続動作 上下角度調整可能 熱中症と暑さ対策 自宅用/事務室用/寝室

 

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有山さんとの旅行

 2004年2月8日、和光店の地主さん、有山ご夫婦と稲取旅行をご一緒しました。他の大手フィットネスチェーンの誘いを断って、明治スポーツプラザに貸してくれました。その感謝の意味もあり、仲介の関口さん、設計のパノムの岡田社長とともに、私の両親の故郷、稲取を観光しました。巌おじさんには旅館(稲取荘)の手配をしていただきました。天気にも恵まれ、稲取だけでなく、河津方面まで足を伸ばし楽しい2日間になりました。その晩の宴会は、芸者をあげて豪遊、費用は総額で80万円ほどかかりました。喜んでいただけたと思います。写真はサファリパークの裏手の山です。私の心の故郷です。

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最終日

2013年7月31日、最終日の退社時に残る社員やパートさんが花束を用意してくれました。もう二度と会うことはない人たちに、せめて笑顔でさよならを言いたいと思いました。妙に明るい雰囲気で、綿貫顧問、曽我常務、児島取締役、そして私は送られました。私は、翌日は明治本社に出社することになっており内心は憂鬱でしたが…

児島あつ子さんの退職金は退職後に支払われるのが普通ですが、明治のグループ企画部の面々が、退職日に受け取れるようにしてくれました。難しい案件だったようですが、私が代表権を失った後では未払いや遅延がおきることを恐れての処置でした。

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