62歳からの楽しい起業

ロビームにまつわる研究内容や所感を日々記録します。

高槻デルタ

 1999年、私は明治スポーツプラザ高槻店隣の明治開発に常務として兼務しておりました。仕事は実に苦しいものでした。ボウリング場、スケートリンク、ゲームセンター、カラオケ、飲食、多岐にわたるアミューズメント施設でした。当時の伊藤専務の命令で約10ヶ月で改革しましたが、成否相半ばとういのが私の自己評価です。伊藤専務は当時の小池社長に「困ったことがあれば石原さんに相談しなさい」と通告しました。それではまるで私が社長です。落下傘部隊の侵略者です。4人の女性従業員を味方につけて粛々と改革しました。宿泊場所は、高槻京都ホテルでした。もちろん会社からは費用負担がありませんので自費で宿泊していました。

 そして、私が去った後、吉澤さんが、明治開発を閉鎖しました。全員解雇でしたが、密約で一人だけ、明治スポーツプラザの川崎本社に入社してもらいました。閉鎖時に放火騒ぎもあり大変でしたが、何とか事なきを得ました。そして建物は取り壊され、更地になりました。

 ある日、高槻店の甲元さんが、「このままの施設では戦えない、是非、施設のリニューアルをしてほしい、できたら隣の空き地に新店を…」との要望がありました。和光店で調子に乗っていた私は、早速、明治製菓に相談しました。佐藤社長へのプレゼンの時、北里会長から「これを90周年記念事業にしよう」とおしゃっていただき、本決まりになりました。はじめの図面を佐藤社長にみせたところ「狭いなあ、もう1スパン拡げたらどうか、百合ヶ丘研修所のときも小さく作って失敗したから…」と。これだけで5億円以上の出費増になりました。結果、テニスコート2面の予定が3面になりました。巨大な店舗です。開発リーダーは児島あつ子、和光店で活躍した「チームあつ子」が開発しました。鹿島建設の所長は出来た方で、追加設備を私が拒否すると、「天井空調は入れなければなりません、施設が長年耐久できません。お金はいりませんからやらせてください」と言われ、納得して追加に応じました。その気迫に押されました。

そして2006年12月1日、開業セレモニーが始まりました。ニットーさん主導のもと関西マスコミ総動員でした。パーティ費用は当初明治製菓が出す予定でしたが、経理より、「利益供与にあたる」との指摘を受け、泣く泣く出金しました。500万円です。巨人軍の上原投手にテープカットをお願いしました。水泳の金メダリスト岩崎恭子さんにも臨席いただきました。またゲッツにイベント司会をお願いしました。業界の代表挨拶はセントラルスポーツの後藤忠治氏でした。のちの因縁を感じます。

施設の紹介などは後日に…

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ただいまご紹介にあずかりました株式会社明治スポーッブラザ、代表取締役の石原良太郎と申します。
 本日は、皆様ご多忙のところ、ご列席頂きまして誠に有り難うございます。皆様の格別のご厚情ならびにご支援によりまして、本日ここにザバススポーツクラブデルタをお披露目する運びとなりました。明治製菓の90周年記念事業の一環としてザバススポーツクラブデルタを開業できましたことを心より御礼申し上げます。奥本市長様にはお忙しいなかご出席いただき重ねて御礼申し上げます。また第一リース株式会社様、株式会社第一ビルディング様には新しいファイナンスで資金を提供していただき感謝に堪えません。さらに、設計の株式会社パノム様、施工の鹿島建設株式会社様にはタイトなスケジュールにも関わらず、大いにご尽力頂きました。プランニングの株式会社フィットネスマネジメント様、デザインの株式会社ダダグラム様、他の全ての関係者の皆様、無事にオープンを迎えることが出来ました事を深謝申しあげます。
 弊社は平成2年創立以来、平成3年に大阪の高槻市、平成5年に新潟市、そして平成7年に川崎市、16年に和光市へ店舗展開を行って参りました。さらに昨年は旧東京ガススポーツの全株式譲受、今年は5施設の公共施設の受託をはじめました。収支の厳しい時期もありましたが、川崎開業後は、順調に業績を伸ばすことができました。
そして今、明治スポーツプラザの歴史の新たな一頁を飾るザバススポーツクラブデルタを親会社・明治製菓の支援の下、ここに立ち上げることが出来ました。
 弊社のミッションは「夢が叶うマイクラブ」を実現することであります。その夢が叶うマイクラブの一店として一号店をこのように生まれ変わらせたことは弊社の全従業員の大きな喜びであります。
 ショップやサプリメントバーでは明治製菓ザバスシリーズやアミノコラーゲン等も販売し、食の面からも健康にアプローチして参ります。さらに明治製菓の「栄養ノウハウ」と「サプリメント事業」、明治スポーツプラザの「運動ノウハウ」を活用した新しい「会員サプリメント事業」をスタートします。またお客様の視点で考えたサービスを提供し、ザバスデルタが地域の皆様にとって楽しいコミュニティになるようつとめてまいります。
 今後は、ザバスデルタを含めた13店の経験を生かしさらなる店舗展開を実現したいと考えております。スピードとバランス、そしてよいタイミングで積極果敢な業務拡大を図っていく所存でございます。
 ご来賓の皆様方には、倍旧のご支援、ご鞭健をお願いする次第であります。また、ご来賓の皆様方のなお一層のご活躍、ご発展を心からお祈り申し上げ、簡単ではございますが私からのご挨拶とさせて頂きます。
 本日は誠に有り難うございました。

 

武漢肺炎雑感

 毎日、毎日テレビは武漢肺炎の話題を追っている。新しい薬やワクチン、パチンコや芸能人の感染、話題に事欠かない日々である。最初に兄が「皆が感染しないと終わらない、年寄の私はどうなるかわからない」と言っていた。集団免疫の考え方である。さすがに医者だけはある。私は「突然死んだら、この事務所の始末はどうなる、家族はどうなる、ブログやフェイスブックの閉鎖はどうなる」などと些末なことばかりが頭に浮かんでいた。

 日本的解決法(ステイホームのお願い)を賞賛していたマスコミも、中国や韓国、また欧米の強権的な施策の方がうまくいっているのではないかと思い始めているが、甘やかされつづけている国民は、外出禁止令は嫌がるだろう。パチンコに行列ができたり、湘南海岸に人出がでると、半ばうらやましさも混じって、なじる。また感染者は生きているうちは犯罪者だ。死ぬと神様だ!

 4月半ばまで「ニューノーマル」を信じていた。武漢肺炎により新しい時代が訪れる不安と期待に胸打ち震えていた。逆戻りはない! しかし、BSプライムの若い学者の意見を聞いて考えは変わった。神戸大震災でも、リーマンショックでも、東日本大震災でも、その時は「変わる、変わべき」と大騒ぎしたが、結局、元の木阿弥で、経済一辺倒に戻った。若い学者は結果は不定と冷静に分析していた。「新しい世界観をもった独裁者に気をつけろ」と警鐘も鳴らしていた。今必要なのは「正しい言葉を使うこと」「死生観をもつこと」と言っていた。

 昨日、米国のゴールドジムが倒産した。日本のゴールドジムとは資本関係がないとはいえ、風評被害は免れないだろう。手塚社長は「潰れない、潰さない」と悲痛なコメントを出していたが、どうなるか結果は不定だ。資金枯渇が起きないことを願う。

 ロビームもどうなるか全くわからない。ただ、私自身は年金生活者なので最強の部類に入ってることは間違いない。高みの見物で申し訳ないが、それが現実である。明治スポーツプラザ、道南食品の社長でなくてよかったというのが本音である。

 国民は国がなにをしてくれるのかを求めすぎている。所得保障一点張りだ! 国は国で、皆さんの協力により感染はおさまると責任回避している。つまり感染がおさまるかどうかは国民のせいだと言っている。そして大坂や東京の知事の人気があがっている。経済不況による治安乱れが気になるところである。

 今の状況を、臨場感あるあいだに記しておく。

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和光店、秘話

 2004年、社長になってからの初めての大仕事は新規出店でした。同時に橋本にも話がまとまりかけて2店同時に企画をすすめていました。今考えると無謀な計画でした…。
 和光案件は、三菱銀行出身でコンサルをしていた関口さんからです。地主の有山社長は、地元の有力者で造園業を手広く営んでいる方でした。一時、ルネサンスとまとまりかけ、袖にされた経験があり、フィットネスクラブには懐疑的でした。
 当時、和光駅前は各社が狙っていました。誰が見ても圧倒的な立地です。「スポーツプレックス」翠愼氏(セントラルスポーツの元常務)や、「文教センター(アスリエ)」の中村氏(のち社長)がアプローチしていました。名だたる手練れなので、とても勝てるとは思いませんでした。しかし、関口さんの上手な仲介と、明治のブランド力で有山社長と懇意になり土地を貸していただけることになりました。資金の問題があり、複雑なリース案件として東急さんが入る予定でしたが、直前でキャンセルされ、第一リースさんに決まりました。東急はパノムの岡田社長からの紹介でしたが、裏でどのようなことがあったかは、私は、あずかり知りません。
 駐車場が確保できないまま見切り発車で契約が行われました。建築中のある日、有山社長にお願いしました。「隣地の駐車場を貸してほしい、もうお金がないので、自走式の駐車場を建設して貸してほしい」との虫の良いお願いでした。約5千万円の投資です。税理士は反対したそうですが、有山社長は、あっさりと建設、賃貸してくれました。今考えるとありえない話です。「はじめから石原さんに全部貸しておけばよかった」とも言われました。今でも有山社長とはお付き合いしてます。私を信じてくれた恩人です。
 経済的に考えれば、ホテルや飲食ビルにした方が儲かります。見識の高いお金持ちでなければ長期にわたる賃貸借契約は成立しません。人と人の信頼がなければ難しい契約です。
 開発としては、第一勧業銀行から紹介されたパノムの岡田社長に設計をお願いしました。デザインは旧知のダダグラム、岩男社長、コンサルタントはフィットネスマネジメントの中島先生でした。担当者は、パノム平田さん、フィットネスマネジメント小林さん、ダダグラム岩男英樹さんでした。そして、リーダーは明治スポーツプラザの児島あつ子さんでした。大坂デルタ店につながる「チームあつ子」の発足でした。
 私が決めた無理筋(建設期間8ヶ月!)の2004年4月1日、明治製菓の佐藤社長臨席のもと開業セレモニーを行いました。セレモニーは、津島さん(明治製菓出向者)に仕切ってもらいました。案内など、吉澤さん(明治製菓出向者)にも手伝ってもらいました。
https://youtu.be/gMavoD4eSmE
 開業後、しばらくして、亡き両親に見学してもらいました。ダメ息子のせめてもの見栄でした。腰の曲がった母が戸惑いながら施設を歩いていた姿を思い出します。それから半年後、母は、孫の結婚式の前日、突然亡くなりました。

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3Dプリンターでマスク製作

 武漢肺炎の最中、ネットでマスクのstlデータを取得してマスク製作してみました。白で作りたかったのですが、白素材が不適でうまくいかず、やむを得ずオレンジにしました。製作物が薄いのでプレート接着に苦労しました。今回はヘアスプレーで接着を補助しました。また、素材の性能が悪いと(古いなど)うまくいかないことがよくわかりました。製作時間は約5時間でした。印象としては、補強の部材を使いすぎです。備忘します。

 

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・Stlデータを、QIDプリンターのデータに変換しました。(QIDI TECHソフトを起動してmask.stlを読み込む)

・setingは、extrudesr1のみに指定。精度は0.2mm、温度はABS樹脂なので、215℃、プレートは時間を考慮して90℃に設定。他はデフォルト。

・priperボタンをクリック →sliceデータに変換mask.x3g →SDカードにコピー

・初期の接着安定化のために、ヘアスプレーを使用

 

東日本大震災支援活動

 2011年3月のある日。毎日、悲惨な報道を見ていて、大災害だと衝撃を受けていました。会社として被災者の人にお役に立てることはないかと考えはじめていました。思いつきました! その何年か前にインフルエンザ騒動があり、イソジンマスクを大量に購入していたのです、その在庫が山のようにあったのを思い出しました。100万円分のマスクです。インフルエンザは、結局、あっさりと終息したので、在庫になっていました。早速、神奈川県に「マスクを寄付したい」と連絡したところ、「明日中に、横須賀の海上自衛隊の駐屯地まで届けてくれ」とのことでした。ちょうど東北に支援物資を送る自衛艦があるとのことでした。翌日、会社の車(自家用車:プリウス)のトランク、座席の空間に積めるだけ積んで、あいにく社員は、皆さんとても忙しかったので、私一人で横須賀に持っていきました。検問所では、確認もほとんどなく、敷地内を車で誘導され、倉庫に着き、マスクを自衛官と一緒に下ろしました。たまたま、そこに自衛隊の広報の方が居て、「写真とってもよろしいですか?」撮影後、「自衛隊の内部の新聞に掲載しても良いですか?」ということになり、後日、写真と新聞が送られてきました。数少ない社会貢献の経験でした。

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東日本大震災の日

 その日は明治スポーツプラザの月例会議の日でした。午前中の会議が終わり、昼食後、管理職研修が始まりました。管理職にテーマを与え、文書を書かせている最中でした。突然の大地震、普通の揺れではない! 壁際でリクルートビルを眺めている社員に、「ガラスが割れるかも知れない、離れなさい」と注意しました。テレビで確認すると、三陸沖だということでした。このときは大津波には思いもよらずでしたが、管理職たちは直ちに自分の事業所に電話をしはじめました。機転が利く甲本さんや小林誠さんは、ホテルの予約をいち早くしていました。そんな中、アルバイトに来ていた娘に、「家に帰りなさい」と帰宅を促しました。沈む戦艦ヤマトの艦長を経験しました。被害状況の連絡が次々とはいるので、夜中まで会社にいました。

 翌日、ブログに書きました。

昨日、東日本でマグニチュード8.8の巨大地震が発生しました。直後から、妻との連絡が取れず、大変心配しました。普段は家にいる専業主婦ですが、出掛けていて、東京駅付近で帰宅難民になってしまいました。地震から10分後くらいに家に電話をかけたところ、留守電になっていて気づきました。「これは出掛けているな」と判断し、娘に家に帰るように指示、家の電話を繋がるようにしました。4時頃、メールが届きました。「東京駅です、電車が動くのを待つ」。ここで怪我はないことを確認して、少し安心。5時頃、またメール。「動かないので歩いて帰る、只今、おにぎりゲット…」。うーん、20キロ以上あるぞ、大丈夫かなあ、と思いながら、メール、電話をかけ続けますが、その後全く連絡がつきませんでした。11時少し前に、娘から「あと20分くらいで家に帰る」との連絡が公衆電話からあったとのこと、ほっとしました。11時10分頃、家に電話をかけると妻がでました。比較的、元気でした。「東京駅八重洲口の路上で地震にあった」「立っていることもできず、バスの停留所の看板に抱きついた」「周りのビルが揺れて、倒れてくるかと思った」「このまま東京は終わりで、私も死ぬかと思った、もうあなたには会えないと思った」「若い女の子が怖がるので手を握ってあげた」「道を間違えないように気をつけた」「たくさんの人と同じペースで歩いた」「小さな子供にお菓子をあげて、喜ばれた」「自転車は走れないが、バイクはよい、車は全く動かず、役に立たない。バスは動いていたが、乗らなくて良かった、乗っていたら混雑で立ち続けてもっと苦労したと思う」「寒い、手袋を置いてきたのを悔やんだ」「心配してるだろうなあと思った」「おなかがすいたが、家に帰ってから食べようと思って、栄養ドリンクを飲んだ」「トイレに並ぶだけで1時間以上ロスした」「公衆電話は並んでいて使えない」「何だか達成感がある」等々。午前3時まで冒険譚、武勇伝を聞きました。

「大人になったね」「私ももう50歳を超えているんだから…」そのまま深い眠りにつきました。 

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 7月になって、またブログに書いています。

東日本大震災のあと、いろいろ考えました。大津波原発、これまでの生活がいかに幸せだったか痛感しました。仕事にも大きな影響があり、対処に手間取りましたが、ようやく落ち着いてきました。

3月…呆然として、目の前の危機(施設休止など)に対処するのみ
4月…国の対処に振り回される(計画停電など)
5月…被害の把握と今後の影響(防災など)
6月…戦略の変更、仕事の仕組みの変更
7月…明日の仕事にようやくとりかかる

幸にして打撃は軽微、この幸運を生かさなければ…

   その途中の顛末は、明治に提出した詳細な資料を基にして後ほど書き残します。

 

ザバス川崎オープニングセレモニー

1995年6月、ザバス川崎がオープンしました。開業前集客が大成功したものの、高槻、新潟が不振で、外部の方々をお招きする余裕がありませんでした。明治製菓の森下取締役にはおいでいただきましたが、寂しいセレモニーでした。新事業開発部の先輩、石渡社長、私とクラブスタッフだけの寂しいオープニングでした。

近所の女体神社の神主さんにプールを念入りにお祓いしていただきました。出崎さんが司会をしていましたが、「テープカット」というべきところを「パイプカット」と言って爆笑をかっていました。

そして、翌日から怒濤のようなお客様との苦しい運営がはじまりました。特に会員カード作成が間に合わず、会費の収入も、うまくできませんでした。集客は大事だけどそれだけではクラブ経営はできないことを痛感しました。痛恨の思い出です。

 

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ザバス川崎プールのお祓い

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テープカットする私

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お待たせする私